昭和における活動記録

LOUDNESSとしての始まり

レイジーとして活動をしている際には、影山氏がボーカルを担当していたこともあって非常に高い人気を獲得していたというほど、当時はアイドルとしては破格の人気を博していた。その後解散して、影山氏がソロデビューを飾るなど華々しい活躍を見せることになるが、先ほど冒頭部分でも紹介したようにLOUDNESSとしてもその後は実力に見合った功績を残しているのだから、お互いに努力をしていたのだろうという背景が伝わってくる。レイジーとして活動をしていた頃からハードロック、ヘヴィメタルなどの音楽をしていくという未来図を作っていたにも関わらず、ポップな音楽を求められてしまい、当時世界的に人気を博していた『ペイ・シティ・ローラーズ』のようなバンドを生み出したいという製作サイドの都合で、レイジーとしての活動基盤が揺らいでしまうなどの問題に直面してしまう。

これは中々ショッキングなのは当人達もそうだが、こうして記録を見ている筆者からして見ても社会的な面で仕方のない部分というにしても、内情としての不満はとてつもないことになるのは目に見えるようだ。そして一番レイジーとして辛いところが、自分達の表現したい音楽と世間一般としてみたレイジーが仮初として作っていた音楽が受け入れられてしまったことも、やはりその後の解散を助長するような結果を導き出すことになってしまったことも大きい。売れるため、または自分達の名前が広げるためにと努力はするが、その最中に生まれた音楽性の違いという溝は埋まる事はなく、解散を選んでしまう結果になってしまった。先ほども述べたが、当時こそもしかしたら険悪な雰囲気が少しでもあったのかもしれないが、それなら近年にみられるような存命のメンバーでレイジーが活動するなどはまず行われないだろう。時間の経過というのもあるかも知れないが、それでもいまだに再結成というフラグが立たないバンドは山ほどある。そういうことを踏まえて考えるとレイジーは解散を選んでしまったが、あくまでお互いがお互いの音楽を追求して行くため、そしてよりアーティストとして進化するために必要な分岐点だったのではと個人的には分析している。

影山氏の活躍もそうだが、高崎氏と樋口氏、田中氏も加わっていたが彼は音楽性の違いによりLOUDNESSとしてスタートする前に脱退をしているが、それで完全に音楽から切り離された生活をしているわけではない。特に高崎氏と樋口氏については自分達の表現したい音楽をこれでもかと追求して行く中で新たな可能性を模索し、そしてバンド名を世界的に確固たるものとしてその名を広げることに成功しているのだから、十分影山氏に負けていない活躍を残しているといえる。

ではここからはそんなLOUDNESSの活躍、結成当初から昭和末期までの活動内容を考察して行こう。

新たなボーカルを迎えての出発

レイジーとしての歴史を一旦幕を下ろすことになり、その後の進路として高崎氏と樋口氏、そして田中氏というレイジーメンバーの内三人が本格的なヘヴィメタルバンドを結成することを決意する。そのため最初の問題である、影山氏が抜けたボーカルの穴を受けるためにバンドの顔を見つけることを最優先事項としてオーディションを開催する。その後バンドリーダーとしては樋口氏がその名を取るが、実質的なバンドプロデュースを行うことになったのはギター担当の高崎氏だ。彼の手動の元でボーカルを探すことになったが、その後田中氏が自分が求めている音楽と高崎氏が表現しようとしている音楽との差にどうしても違和感を払拭する事ができず、音楽性の違いを理由にバンドから脱退してしまうのだった。やはりメンバーの一人がプロデュースするような形になってしまうと、どうしてもその人よりの表現に傾倒してしまい、各々が自分の表現としての音楽を行う事がしにくくなってしまう。これも大人の事情という風に片付けることは出来るかもしれないが、やはり個人としてはどうしても受け入れがたかったのかもしれない。譲れない物があるからこそ脱退を選んだのは、賢明な判断なのかもしれないが。

元々は高崎氏個人の集まりだった

だがLOUDNESSが当初から結成されていたわけではない、そもそも高崎氏がどうしてそこまで個人の意思を全開にしたプロジェクトだったのかというと、これは彼個人が発売するためのアルバムを製作するためだったからだ。その中で田中氏は加入しないかと誘われたわけだが、それと同時に彼にも別バンドを結成しており、そのファーストライブの打ち合わせをしている時に勧誘されたというののだ。確かにこういう事情が絡んでいるのなら参加したくても出来ないというのでは仕方のないところでもある。

そうした中で高崎氏は樋口氏と、さらに二井原実をボーカルに向かえ、そしてベースに山下昌良を加えてアルバム製作をしていた。そこまで深い意図こそなかったものの、アルバム製作をしている中でお互いにセッションを繰り広げていくと、その完成度によってこれはいけると樋口氏から4人でバンドを結成したいというところで、LOUDNESSとしてのバンドが第一歩を踏み出すことになる。

デビューを飾り、さらにその本格的なヘヴィメタル調のバンドは当時の日本音楽業界からすれば、実のところあまりに無茶な挑戦をしている異端児のように見られていた。元々はヘヴィメタルも海外で親しまれている音楽だったこともあり、日本人ではどうしてもその場を表現するだけの力が足りないとして、業界としても市場としてもあまり広くはなかった。そうした中、満を辞して世間に出てきたLOUDNESSは、その音楽が大多数だった売れないだろうという見解を否定するように、ライブチケットが完売するというハードロックを日本人が演奏しても何ら問題ないと証明するように、その力を遺憾なく発揮したのだった。

その後海外進出し、ロサンゼルスで行なわれたライブでも大成功するなど目覚しい活躍を刻み込んでいくのだった。

海外進出は成功したが

LOUDNESSとしてバンドは成功を、日本としても世界としても記録を残すことになって行く。本格的な日本初のヘヴィメタルバンドとしてその名を残し、アメリカのファンの中には日本語で製作された作品購入を希望する現象が起きるなど、世界的なヘヴィメタルバンドとして着実にその歩みを刻み付けていたが、音楽性が突如として変更したりするなど迷走したが、バンドとしては完成された域まで形成されていく中で、ボーカルとして加入した二井原氏の歌唱と音楽性がマッチしなくなってきたこともあり、事実上の解雇を言い渡すなどの波紋を投げかけている。

二井原氏はその後再度LOUDNESSとしてのボーカルに参加するなどしているが、その後のメンバー編成を見れば結成時から中々波乱万丈なバンドの活動歴史からしても察することが出来る点だ。記録を残すことは出来ても、内面として問題は耐えないグループだったようだ。